過去を振り返って・・・2
前回の、「過去を振り返って・・・1」では、ギャラリーで開いた個展について紹介しましたが、
今回は、若い頃のその他の仕事です。
*その1 公募展
学校を卒業してほどなくして、朝日現代クラフト展が始まりました。
第1回目の展覧会に出品して、奨励賞を頂きました。
この頃、「工芸」という言葉に代わって、「クラフト」という言葉がよく使われるようになりました。
1980年代初めの頃です。
工芸も、クラフトも、とても広い範囲のものを指し示す言葉です。
工芸と、クラフトという言葉は意味に違いがあるのか、ニュアンスの問題なのか、
そして、この新しく始まった公募展は、どんな作品を、優れたクラフトと見なすのか、
さっぱり、解りませんでしたね。
京都芸大では工芸美術というものを学んできたのですが、世の中は、広いですから。
工芸という世界で、自分の立っている所があやふやでした。
賞を頂いたものの、自分の目指すところも、あまり良く解っていませんでした。
第1回に出品したタピスリー。 春の記録。
t経糸に、細い絹糸(玉糸)を使い、横糸は、麻と絹で織っています。
素材の感じは、今の作品とよく似ています。白く見えている所は、透けています。
清水智子、とあるのは、本名です。
上の写真は、ミシンワークで作った服。第3回展に出品したものです。朝日新聞の写真です。
繊維や糸の塊を、ぐさぐさとほぐして広げ、直接、ミシンをかけて作りました。
第3回まで、出品しましたが、だんだん、自分の作るものが変わっていって、以後は出さなくなりました。
*その2 着るもの
芸大の学生の頃は、きものが課題でした。
染織科は、染めと織に分かれていましたが、織の方は、技術的な指導がほとんどありませんでした。
織物というのは難しいので、難しいことを教えすぎると、生徒の自由発想の妨げになるという教育方針だったように思います。当時の私の技術では、思うように、きものを織るなんて不可能に近かったです。
それでも7枚くらい着物を、織りました。
学校を出てからは、身につけるものとして、ショールやマフラーなど、織っていましたが、
自分用に洋服を織って仕立てて着ていたら、たまたま見た人が、私にも作って欲しいと言われて
洋服作りが始まりました。
いままでの作品とは違い、人に着ていただく、という事のむずかしさに直面しました。
洋裁は、素人。しかし、かえって素人であることで、大胆に思い切りよく、服作りが出来たみたいです。
それは、面白いけれど、着にくい服だったかもしれません。
今では、ずいぶん洋裁の経験も増えて上手につくれるようになりましたが、平凡にもなりました。
少し恥ずかしいのですが、東京原宿で、「織の装い」なるものを開いたことがありました。
私は、裾がつぼまったワンピースを着ています。洋服はほとんどウールの織物です。
ギャラリーは、新しく出来たばかりで、お客も少なく、あまり売れませんでした。
このブルーと黄色のアンサンブルは、フルートの演奏家が買ってくれました。
*その3 大阪ガスのサービスショップ
知り合いのギャラリーを通じて、様々な方と知り合いになりました。
その中で、生活環境文化研究所の橋本さんと、知り合い、
大阪ガスのサービスショップをつくる仕事のお手伝いをしました。
場所は、神戸市西区、西神ニュータウン。ショップ名は「シイメス」
ショップでありながら、多くの人が遊びに来たくなるような場所をめざし、
いくつかのアート作品があり、料理教室などのカルチャー教室がケーブルテレビで中継され、
リホームやインテリアの多くの書籍があり、で
子供も大人も楽しめるといううのが、モットーでした。
私の役は、アートプロデュースで、
自分も作品を一つ作り、何人かの作家にも、作品制作に参加してもらい、建物との調和を考え、まとめることでした。
芸大の時の知り合いの作家さんに制作を依頼。いろいろ助けてもらいました。設計の方も、京都芸大出身の建築家の方でした。
建物の玄関付近。ラクダの立体作品がガラス窓から侵入、室内には画家小田さんの作品。写真では分かりづらいですが、一番手前に、陶板のは貼ってあるコンクリートベンチ。
私の作った鉄製の、アートフェンス。子供が道路に急にとびださないように作りました。
鉄製のフェンスは目の細かいネットフェンスをレーザーでカットした鉄板で挟み込んで、ペイントして仕上げています。
彫刻家の田路さんに手伝ってもらって作りましたが大変でした。
子供がぶつかってけがをしないように、かどをサンダーで削りましたが、私には重労働でした。
地面の下に降りているのが私。溶接を覚えたり、生コン車を手配したり。初めての事ばかりでした。
なぜ、こんな作品か、というとネットフェンスが、織物のようだったから、と、他にやってくれる人がいなかったから、です。
設置中ニ、ペイントの、剥げ落ちたところを補修。
彫刻家、田路さんの作品。ガラスに小さな穴をあけ、通した鉄のバーで内と外の部分を接続しています。
この試みは、日本で初めてだという事で、ガラス業界の人が、見学に来たとか・・・・
移動扉と分解できる机に、画家の小田さんがペイント。両横の扉には、建物の、床材、壁材などの見本で埋め尽くされています。
20歳代後半から30歳代の頃をいくつか紹介しました。今から考えると、これだと、思えるものがなく、
あっちこっちに手を出していましたね。来る者は拒まず、でした。